この頃、日本は「大正デモクラシー」の民主的な時代で、労働運動や社会運動が活発になり、マルクス主義が知識人や学生などに急速に受け入れられていきました。大正15(1925)年のソ連との国交を樹立した政府は、同時に普通選挙法と抱き合わせに、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まる治安維持法を制定します。昭和3(1928)年の日本初の普通選挙に日本共産党も活動を表面化させ、その後、共産党員の大量検挙や弾圧など、過剰ともいえる政府の反応も始まりました。
この様に冷戦と言うと、第二次世界大戦後に発生したアメリカとソ連の東西冷戦を想起しますが、日本ではソ連との地理的な近さから戦前には発生していたのです。
その為、昭和11(1936)年の2・26事件なども、天皇を頂く行動から分かりずらいですが、農民の疲弊と困窮の原因が指導者の政治腐敗や政財界の癒着などにあるとして、当時の国家指導者クラスを標的とするなど、手法は共産革命そのものだったのかもしれません。2・26事件の理論的首謀者とされた北 一輝も国家社会主義者で、その著書『日本改造法案大綱』も「右翼的国家主義的国家改造をやること」が目的とされています。
そして、戦前の昭和10年代からの天皇の現人神化や、、国史教科書の冒頭に『日本書紀』の”天壌無窮の神勅”が掲載されたりといった過剰なまでの神国観念の高揚も、天皇制打倒を掲げる共産主義に対抗する手段だったのかもしれません。昭和10年代の日本は支那事変や大東亜戦争という国家総力戦と共に、共産主義との思想戦(冷戦)という二つの戦争を戦っていたのかもしれないと思ってきています。

