2012年04月10日

冷戦

1917(大正6)年に世界初の共産党政権のソビエト政権が誕生し、二年後にソ連共産党が「コミンテルン」という世界革命を目指す為の機関を作り、活動を開始します。

この頃、日本は「大正デモクラシー」の民主的な時代で、労働運動や社会運動が活発になり、マルクス主義が知識人や学生などに急速に受け入れられていきました。大正15(1925)年のソ連との国交を樹立した政府は、同時に普通選挙法と抱き合わせに、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まる治安維持法を制定します。昭和3(1928)年の日本初の普通選挙に日本共産党も活動を表面化させ、その後、共産党員の大量検挙や弾圧など、過剰ともいえる政府の反応も始まりました。

この様に冷戦と言うと、第二次世界大戦後に発生したアメリカとソ連の東西冷戦を想起しますが、日本ではソ連との地理的な近さから戦前には発生していたのです。

その為、昭和11(1936)年の2・26事件なども、天皇を頂く行動から分かりずらいですが、農民の疲弊と困窮の原因が指導者の政治腐敗や政財界の癒着などにあるとして、当時の国家指導者クラスを標的とするなど、手法は共産革命そのものだったのかもしれません。2・26事件の理論的首謀者とされた北 一輝も国家社会主義者で、その著書『日本改造法案大綱』も「右翼的国家主義的国家改造をやること」が目的とされています。

そして、戦前の昭和10年代からの天皇の現人神化や、、国史教科書の冒頭に『日本書紀』の”天壌無窮の神勅”が掲載されたりといった過剰なまでの神国観念の高揚も、天皇制打倒を掲げる共産主義に対抗する手段だったのかもしれません。昭和10年代の日本は支那事変や大東亜戦争という国家総力戦と共に、共産主義との思想戦(冷戦)という二つの戦争を戦っていたのかもしれないと思ってきています。


posted by しきしま at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月10日

文化財保存の意義

今回の東日本大震災では、沢山の文化財も消失したり破損してしまったりしたようです。数万人の死者・行方不明者を出している中、文化財の事を論じるのは不謹慎かもしれませんが、この機会に文化財を保存している意義を考える機会を得る事が出来ました。

寺社仏閣にまつわる物やお城、その他の文化財を保存し続ける事は、当時の生活様式や技術水準を知る上でも非常に重要だと思いますが、一番重要なのはその文化財に込められた精神ではないかと思いました。

豊作を祈ったり、命をかけて当時の先進国に渡り、何年もかけて習得した知識・技術をまた命懸けで国に戻り人々の為に還元したり、領土を守り困難な状況に打ち勝つために機能性を追求した建築をしたり、そのような精神を継承する事に意味が有ると思います。

その当時と全く同じような環境や状況が発生する訳はありませんが、形を変えて繰り返し繰り返し、同じような状況は発生していると思います。そのような時に、歴史を学ぶと共に文化財という現物を目にする事で得られるものも、何かしらあるのではと思いました。





posted by しきしま at 12:00| Comment(2) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月31日

東日本大震災と自粛 その2

そのような自粛ムードに対し、自粛しすぎると経済が委縮し、結果的に復興が必要な東北にお金が回らなくなると共に、日本全体が地盤沈下してしまうと警告を発する識者もいます。中には日本人の横並びの観念が、自粛に拍車をかけていると指摘するメディアもあります。

しかし私は、自粛する日本人は、確かに人の目を気にする気持ちもあるのは確かだとは思いますが、大方の人は東北の惨状を目にして、本当に心を痛め、とても活発に行動する気にはなれないと思っていると感じています。そして、そのような自粛する気持ちは、被災地で助け合ったり譲り合ったりする気持ちと根っこの部分では同じなのではと思います。合理的思考に従い、訓練によって自粛するような気持ちを無くしてしてしまったら、災害時などの困難な時に自然と助け合ったり譲り合ったりする気持ちも出てこなくなってしまうのではと個人的には思います。

現実的な意見を述べる人や正論を発する人も貴重で大切な存在だと思いますが、日本列島の風土と長い歴史で培った自然に発せられるような感情も大切ではないかと思います。頭では分かっていても仕方のない事もあると思います。

何事もタイミングとバランスが大切なので、自粛しすぎているといわれている日本人も、現実というものも分かっているので、いずれより以上に活動する日が自然と来ると思っています。









posted by しきしま at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平成 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月30日

東日本大震災と自粛 その1

平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災は、国内観測史上最大のマグニチュード9.0を記録しました。津波と火災では多くの方が被災され、12日の福島原発爆発などの発生で避難指示も発令されました。

福島原発の件は政府や東京電力の不備なども取りざたされましたが、海外の大方のメディアは大地震に伴う日本人の冷静な対応に賛辞を惜しまなかったようです。東北では被災された方が避難所で助け合い、救援物資を譲り合う姿が見られたといいます。現実にはそれが全てではないでしょうが、海外に比べれば驚愕に値するようです。東京でも地震発生後、交通機関の麻痺した都会での人々のマナーの良さが海外に注目され、紹介もされていました。

そして、その後は東京を見る限りは自粛がトレンド(と言っては失礼かもしれませんが)のような気がします。電力不足からくる節電も、そのムードに拍車をかけていると思います。ところが、節電に関しては、電力は蓄積出来ない為、一日のうちの使用電力のピークが発電量を越えなければ問題ない訳で、深夜の節電はそれ程意味のあるものではないようです。東京都庁からもそのような情報が発信されていますが、役所が管理していると思われる道路の電灯も半分以上は消灯されているような気がします。そして、民間のコンビニも看板など消灯しています。

− つづく −









posted by しきしま at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平成 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月01日

ワシントン海軍軍縮条約 その3

これに対し、対米6割を主張したグループは後に条約派と呼ばれるグループでしたが、こちらの言い分はこうだったようです。「相手の開戦後の造船能力や工業力を加味すると、たとえ7割乃至それを上まわる海軍力を保有していてもそれは次第に6割、5割、4割と転落して行って、時間の経過とともにやがてゼロに達して終わる」。その為、対米7割でも対米6割でも日米戦争は不可能なので、条約ではなるべく現実的な線での妥協が必要と考えたようです。

実際の歴史は後の大東亜戦争で、条約派が予見したとおりとなってしまったので、艦隊派が頑迷な国際関係に疎い悪玉のような印象が出来てしまったと思います。ただ、艦隊派の主張もアメリカが日本に進攻した場合の日本防衛の観点からの理性的な面もあるので、悪玉のイメージで捉える事は考え直す必要があると思います。









posted by しきしま at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 大正 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月27日

ワシントン海軍軍縮条約 その2

艦隊派の言い分としては、「戦時における洋上の力関係は、保有兵力Nの自乗に正比例する。静的状態での10対6は、運動を加味すると100対36になる。 アメリカに進攻して勝てるとは思わないが、優勢のアメリカ艦隊が日本へ攻めて来た場合、洋上にこれを邀撃して敗れない為には、少なくとも100対49の、つまり対米7割の海軍兵力が必要であり、そうでなければ国防の責任を負いかねる。」というものだったようです。実際、アメリカの軍事専門誌でも対米7割が日米決戦の分岐点として挙げている数字だそうです。

− つづく −









posted by しきしま at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 大正 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月25日

ワシントン海軍軍縮条約 その1

ワシントン海軍軍縮条約は、大正10(1921)年11月から大正11(1922)年2月までアメリカのワシントンD.C.で開催された「ワシントン会議」のうち、海軍の軍縮問題についての条約です。この条約で、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの戦艦・航空母艦等の保有の制限が取り決められました。

艦艇の保有比率は、英:米:日:仏:伊がそれぞれ、5:5:3:1.75:1.75の割り当てとなりました。当初、日本は自国防衛のため対米7割を主張しましたが、米英とも受け入れませんでした。

この時に海軍内で対米7割を主張したグループは後に艦隊派と呼ばれ、海軍の中でも悪玉の役割を負わされてしまった感があります。この対米7割か6割かでは何が違うのでしょうか?

− つづく −









posted by しきしま at 12:00| Comment(0) | 大正 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月22日

陸軍悪玉論 本土決戦 その2

最初の本土決戦は、昭和20(1945)年秋の連合国軍の南九州への上陸と予想されました。それまでの各戦場では、随所で一個師団前後の兵力が敵の大軍に包まれて玉砕の悲運を繰り返してきましたが、今度は違うという思いがあったようです。寄せ集めで不完全とはいえ陸軍は十個師団で待ち構え、応急の粗製乱造とはいえ海空の特攻作戦も大がかりなものが計画されていました。今回は海に隔てられる事のない本土で、二十万近い大軍が補給の保証と地の利を得ての戦闘となります。

但し、流石の帝国陸軍も戦闘は一回限りで戦力が枯渇する事は自覚していたようです。昭和21(1946)年春に予想される関東地方への連合国軍の上陸作戦は対応不可能との認識があったようです。その為、昭和20(1945)年秋の南九州での本土決戦で自軍の損害を顧みず、連合国軍に一回だけでも一大痛撃を与え、講和条件を少しでも日本に有利なものにするのが帝国陸軍の日本及び日本人への責務であると考えていたようです。
現実的には、この時点でソ連も対日宣戦布告しています。仮に連合国軍に南九州で一大痛撃を加えた所で、相手が講和条件を勘案しなければ、ポツダム宣言受諾より過酷な状況になっていたかもしれません。しかし、今日でも当時の帝国陸軍の主張を、「あれで勝てると思っていたのか。呆れた狂人だ」と軽蔑する人が大部分のようですが、それは認識が間違っているように感じています。









posted by しきしま at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月20日

陸軍悪玉論 本土決戦 その1

昭和20(1945)年夏の終戦の瀬戸際で帝国陸軍は本土決戦を主張していました。客観的情勢の分かっている今日からみると、陸軍の主張は根拠なき狂気の沙汰のようにも見えますが、陸軍の言い分は本当に常軌を逸しているものだったのでしょうか?

陸軍の本来のお家芸としてよく研究、演錬していたものに『会戦』というものがあります。会戦とは、10個師団以上の大兵団が相撃つ戦闘を言います。日露戦争では奉天の戦い、第二次世界大戦ならスターリングラードなどがそれです。しかし、大東亜戦争において陸軍は一回も『会戦』を戦うことなく敗戦を重ね、遂に本土決戦まで追い詰められてしまいました。殆どの戦いが広大な太平洋に点在する事になり、陸軍は幾十にも分割され、また補給が意の如くならず、わずかな兵で飢餓に悩ませられながら戦う事になったのは周知の如くです。精強を誇った帝国陸軍も地区的勇戦を記録したのみで大局的に圧倒されてしまいました。そして、帝国陸軍は本土決戦が日米陸軍の大兵団が相まみえる最後の機会と捉えたようです。

− つづく −









posted by しきしま at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月17日

陸軍悪玉論 三八式歩兵銃 その2

何れにせよ、大東亜戦争の敗因を三八式歩兵銃に求めるのは無理があるようです。第二次世界大戦中の交戦各国でも、ソ連は終始、明治24(1891)年に出来たボルトアクション式小銃でドイツと戦い、イギリスもまた明治28(1895)年完成のボルトアクション式小銃で大戦を戦い続けました。どちらも日露戦争以前の設計に基づいていました。ドイツも明治31(1898年)に完成したボルトアクション式小銃の派生型を昭和10(1935)年採用として使用していました。

列強の中で自動小銃を全面採用出来たのはアメリカ軍だけで、その他はスウェーデンやチェコのような、陸軍が小所帯の小国のみだったようです。

そして、各国とも使用期間が長いのは、ボルトアクション式の小銃がとても完成度の高い小銃であるためです。その為、現在でもアメリカ軍や警察の狙撃専用銃もボルトアクション式が使用されています。

三八式歩兵銃の欠点として、「職人が一丁一丁手作業で製作した為、性能がまちまちであった」「同じ銃でありながら、部品の互換性がなかった」等があげられますが、これらの欠点は必ずしも三八式歩兵銃だけの事では無く、他の列強の銃も同じであったようです。

三八式歩兵銃も戦後、悪いイメージが出来上がってしまったようですが、これもイメージを改善する必要があるかもしれません。









posted by しきしま at 12:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする